インターネット上の掲示板や都市伝説系のまとめ記事において、「アリスの芋虫が吸っているのはアヘンではないか」「キノコはマジックマッシュルーム(幻覚剤)の暗喩である」といった言説を目にすることがあります。しかし、文学史研究および当時の社会的背景に照らし合わせると、この解釈は明らかな後世の歪曲であることが分かります。
この誤解が世界的に定着した最大の契機は、1960年代後半のアメリカにおけるヒッピームーブメントでした。ロックバンドのジェファーソン・エアプレインが1967年に発表した大ヒット曲『ホワイト・ラビット』では、アリスの物語がサイケデリック・ドラッグの体験と露骨に重ね合わされ、芋虫の水タバコも幻覚体験のシンボルとして消費されました。
しかし、原作者のルイス・キャロル(本名:チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン)は、オックスフォード大学クライスト・チャーチの数学教授であり、英国国教会の助祭でもあった極めて敬虔かつ規律正しい人物です。彼が残した膨大な日記や蔵書目録、知人との書簡を精査しても、薬物使用の形跡は皆無であることが文学研究者によって立証されています。
19世紀の英国児童書において、キノコは民話や妖精譚(フェアリー・テイル)の定番アイテムであり、エルフや小人が腰掛ける台座として描かれるのが通例でした。また水タバコも、当時万国博覧会などで急速に知られるようになった東洋のエキゾチックな喫煙文化を風刺・借用したナンセンス表現に過ぎません。後世のサブカルチャーが貼った過激なレッテルを剥がして原典に向き合うことで、作品本来の純粋な言葉遊びと知的な構造美が浮かび上がってきます。