八田與一の死から3年後、八田家をさらなる過酷な悲運が襲います。妻・八田外代樹(とよき)の自死です。
外代樹は金沢の開業医・米村義茂の長女として生まれ、16歳で與一に嫁ぎました。2男6女の計8人の子宝に恵まれ、慣れない異郷・台湾の山奥にある烏山頭ダム建設宿舎で、夫を献身的に支え続けた女性でした。現地では作業員やその家族の健康・生活にも気を配り、多くの人々から「奥様」と慕われていました。
しかし、1942年の大洋丸沈没による夫の戦死、そして太平洋戦争末期の台北空襲など、外代樹の日常は過酷を極めていきます。そして1945年8月15日、日本は敗戦を迎えました。
台湾が中華民国統治下へと移行する中、在台日本人には日本本土への強制送還(引き揚げ)命令が下されます。台湾で生まれ育った子どもたちの将来、夫のいない日本への帰国、そして何よりも「夫が命を懸けて造り上げたダムから引き離される」という過酷な現実が、彼女の心に重くのしかかりました。
1945年9月1日未明、台風が接近し激しい風雨が吹き荒れる中、外代樹は白絣の着物を身にまとい、八田與一の魂が宿る烏山頭ダムの放水口へと身を投じました。享年45でした。机の上には、短い遺書が残されていました。
「愛する子供たちよ、強く生きてください。私はお父様のいらっしゃる烏山頭の水になります」
夫が情熱のすべてを注ぎ込んだ水利施設に自らの命を還すという彼女の最期は、嘉南の人々に大きな衝撃と深い哀悼を与えました。戦後、烏山頭ダムのほとりには與一と外代樹が共に眠る合葬墓が建立され、夫婦は今も愛した台湾の大地を静かに見守り続けています。