郡上八幡城を語る上で欠かせないのが、作家・司馬遼太郎が紀行文学『街道をゆく(濃尾参州記)』に残した「美濃の郡上八幡は、隠れ里のような町である。山城のたたずまいが、日本で一番美しい」という賛辞です。彼が息をのんだのは、峻険な八幡山と調和した城郭の佇まいと、城下町全体に流れる澄んだ水路の美しさでした。
この城の歴史は、永禄2年(1559年)に遠藤盛数が八幡山の上に陣を築いたことに始まります。その後、稲葉貞通によって本格的な天守や石垣が整備され、近世城郭としての姿を整えました。
また、戦国時代の内助の功で知られる土佐藩主・山内一豊の妻「千代(見性院)」の生誕地としても広く知られています。初代城主・遠藤盛数の娘とされる千代は、名馬を買い求めて夫に出世の契機を与えた逸話で有名であり、城山公園には一豊と千代の仲睦まじい銅像が建てられています。
さらに時代が下った幕末、郡上八幡城には哀切極まる武士道の悲劇が刻まれました。戊辰戦争において、藩論が新政府軍恭順へと傾くなか、徳川幕府への恩義を貫くために結成された青年藩士たちの決死隊「凌霜隊(りょうそうたい)」です。弱冠17歳の隊長・朝比奈藤兵衛率いる47名は、会津若松城(鶴ヶ城)に駆けつけて籠城戦を戦い抜きました。敗戦後、彼らは逆賊として故郷へ連行され、過酷な投獄生活を強いられるという過酷な運命を辿りました。城内には彼らの義勇と苦難を偲ぶ「凌霜隊の碑」が静かに佇んでいます。