天正10年(1582年)6月2日、京都・本能寺で織田信長が明智光秀に討たれた際、秀吉は備中国(現在の岡山県)で毛利方の清水宗治が籠城する高松城を包囲していました。この危機に際して見せた織田信長 本能寺の変後の動きは、軍事史上まれに見る迅速さでした。
変報をいち早く察知した秀吉は、信長の死を毛利方に徹底して秘匿。即座に清水宗治の切腹を条件とする和睦を結びました。そして敢行されたのが、日本戦史上名高い中国大返し 日程と経緯です。
備中高松城を出発した秀吉軍は、姫路城を経て山崎の決戦場まで、約200kmの道のりをわずか7日間で踏破しました。当時の常識では1日15〜20kmの行軍が限界とされた中、豪雨による河川の増水や泥濘をものともせず、1日30〜40kmの猛スピードで駆け抜けた計算になります。
この神速の移動を可能にしたのは偶然ではありません。秀吉は道中の宿場町に大量の松明、替え馬、握り飯を事前に手配させ、姫路城では蓄えていた金銀や米を将兵に惜しみなく配分して士気を極限まで高めました。精密な事前計画と兵站構築が、不可能を可能にしたのです。
迎えた6月13日の山崎の戦いにおける山崎の戦い 勝因の真相は、スピードが生み出した心理的圧倒と兵力差にあります。光秀は秀吉がこれほど早く戻るとは予測しておらず、畿内の味方工作が完全に後手に回っていました。信長の盟友であった細川幽斎・忠興父子や筒井順慶は秀吉の接近を知って光秀への加勢を拒絶。秀吉軍約4万に対し、光秀軍は約1万6000にとどまりました。天王山の争奪戦を制した秀吉軍は光秀軍を粉砕し、秀吉は「信長の仇討ちを果たした筆頭後継者」として名乗りを上げることになりました。