小式部内侍と百人一首の真相|母の影を振り払った名歌と早世の真実

小式部内侍と百人一首の真相|母の影を振り払った名歌と早世の真実

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この名歌が生まれた瞬間は、鎌倉時代に編纂された説話集『十訓抄』や『宇治拾遺物語』に臨場感あふれる筆致で記録されています。いわゆる「藤原定頼 小式部内侍 逸話」として知られる宮中事件の真相です。

時を遡ること平安時代中期、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女)に仕えていた小式部内侍は、宮中で催される大規模な「歌合(うたあわせ)」の詠み手の一人に抜擢されました。しかし当時、母の和泉式部は夫である丹後守・藤原保昌に伴って丹後国へ下向中でした。

当代屈指の歌人であった母が不在のなか、若き小式部内侍に対して宮中では「母親に代作を頼むのではないか」という歌合 丹後局 代作疑惑が囁かれていたのです。

歌合の準備が進むある日、権中納言であった藤原定頼(歌人・藤原公任の長男)が、局(つぼね)にいた小式部内侍の前を通りかかり、御簾(みす)越しに次のような嫌味を投げかけました。

「丹後へ遣わした使者はもう戻って参りましたか? 母君からの知恵(代作の歌)は届きましたでしょうか。歌合の準備は心細いことでございましょうね」

このあからさまな侮辱に対し、小式部内侍は動揺するどころか、局から退出しかけた定頼の直衣(のうし)の袖を御簾の下から引き止め、間髪を容れずに詠みかけたのが「大江山いく野の道の遠ければ」の一首でした。

『十訓抄』には、この瞬間の定頼の狼狽ぶりが生々しく記されています。十訓抄 大江山 本文現代語訳によると、定頼は「思いがけない名歌の切れ味に完全に圧倒され、返歌(返しの歌)を詠むことすらできず、袖を引きちぎるようにして逃げ去った」と伝えられています。即興で詠まれた歌の完成度の高さによって、小式部内侍は宮中の侮りを一瞬で賞賛へと変えたのです。

高橋 健太
著者

高橋 健太

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。