「総理の息子だから簡単にデビューできた」という世間の認識は、客観的事実とは異なります。孝太郎は当初、自力で道を切り拓くために一般のオーディションに挑戦していました。その象徴的な出来事が、2000年に開催された「21世紀の石原裕次郎を捜せ!」オーディションです。
応募総数5万2005人という驚異的な倍率の中、孝太郎は書類選考を通過したものの、2次審査で無念の落選を経験しています。当時の審査関係者の回想によると、孝太郎の端正なルックスと立ち振る舞いは際立っていたものの、石原プロモーションが求めていた「骨太で野性味のあるタフガイ」というカラーと、孝太郎の育ちの良さやソフトな雰囲気が合致しなかったことが落選の要因だったとされています。
転機が訪れたのは2001年4月、父・純一郎が内閣総理大臣に就任し、日本中に「小泉旋風」が巻き起こった瞬間でした。かつて裕次郎オーディションに応募していた青年のなかに現役首相の長男がいるという噂が業界内を駆け巡り、芸能事務所イザワオフィス(ザ・ドリフターズが所属する老舗事務所)への所属が決定します。
しかし、デビューと同時に待ち受けていたのは、猛烈な「親の七光り」批判でした。「父親の人気に便乗した腰掛け」「実力もないのに特別扱いされている」といった世間の冷ややかな視線に対し、孝太郎は愚直なまでの現場主義で応えました。当時の撮影現場スタッフの証言によると、彼は常に誰よりも早く現場に入り、共演者のみならず末端のアシスタントスタッフ全員に対して深々と頭を下げて挨拶を交わしていたといいます。
特に大きな影響を与えたのが、事務所の偉大な先輩であった故・いかりや長介との出会いでした。いかりやから「役者は現場にいる人間全員に生かされている。感謝を忘れるな」という徹底的な薫陶を受け、孝太郎はどれほど知名度が上がっても一切天狗になることなく、謙虚な姿勢を崩しませんでした。この愚直な誠実さこそが、下積み時代のバッシングを信頼へと変えていく原動力となったのです。