向田邦子、林芙美子、そして戦後派を代表する梅崎春生や島尾敏雄。彼らの生い立ちや作風は一見するとバラバラであり、世代も文壇における立ち位置も大きく異なります。しかし、鹿児島と彼らの関わりを丹念に追跡すると、極めて印象的な共通点が浮き彫りになります。それは、「自らのアイデンティティが揺らぎ、生の根源を問い直さざるを得なかった臨界点において、鹿児島というトポス(場所)が決定的な触媒となった」という事実です。
向田邦子は昭和14年、保険会社に勤める厳格な父の手許を離れず、家族とともに小学4年生の約1年間を鹿児島市平之町で過ごしました。のちに自著『鹿児島感傷旅行』において「私の中に鹿児島弁の血が流れている」「故郷もどき」と述懐した彼女にとって、桜島の降灰に驚き、楠の大樹に圧倒された日々は、昭和庶民の家族像を鮮烈に描く原風景となりました。よそ者(余所者)として足を踏み入れた土地でありながら、濃密な人情と雄大な自然によって「第二の故郷」へと昇華された経験が、名作『父の詫び状』に漂う独特のぬくもりと厳しさの源泉となっています。
一方、母の故郷が桜島古里町であった林芙美子は、幼少期に過酷な放浪生活を強いられる中でこの地に身を寄せました。桜島文学碑に刻まれた「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かれど」の言葉通り、彼女の骨太なリアリズムと逞しい生命力は、活火山を背負って生きる鹿児島の風土と不可分に結びついています。さらに梅崎春生や島尾敏雄にとっては、太平洋戦争末期の特攻出撃待機という「死の淵」において鹿児島の海と山に対峙した体験が、戦後文学の記念碑的傑作を生む絶対的な契機となりました。彼らにとって鹿児島とは、単なる避暑地や旅情の地ではなく、「魂の脱皮を迫られる極限の境界空間」だったのです。