桑田真澄を語る上で、高校野球の聖地・甲子園と、盟友・清原和博氏との「KKコンビ」の存在を外すことはできません。1983年夏、大阪のPL学園に入学した桑田・清原の1年生コンビは、初出場でいきなり全国制覇を達成。以来、3年間で5季連続甲子園出場、優勝2回、準優勝2回、通算20勝3敗という、戦後高校野球史上破滅的なまでに突出した金字塔を打ち立てました。
打者としても甲子園歴代2位となる6本塁打を記録した桑田氏の投球は、すでに高校生の領域を遥かに超えていました。ただ速い球を投げるのではなく、外角低めへの精密機械のような制球力、打者の心理を逆手に取る変化球の配球術は、当時から「完成された投手」と評されていました。
しかし、その栄光の軌跡は1985年のドラフト会議で劇的な陰影を帯びることになります。巨人入りを熱望していた清原氏に対し、早稲田大学進学を表明していた桑田氏を読売ジャイアンツが1巡目で単独指名。世間から「密約劇」とバッシングを受け、涙を流した清原氏と、巨大な重圧を背負ってプロ入りした桑田氏の運命は、ここで決定的な分岐点を迎えました。
プロ入り後、両者はセ・パ両リーグを代表するスーパースターとして激突し、後に巨人でチームメイトとなりました。清原氏が度重なる怪我や引退後の私生活の混乱、そして2016年の薬物事件へと転落していく過程でも、桑田氏はメディアの前で感情的な迎合をせず、厳しくも温かい距離感を保ち続けました。事件直後の「あいつの復帰を信じているが、過ちは徹底的に償わなければならない」という言葉には、かつて命を削って同じマウンドと打席に立った戦友だからこその重みがありました。
2020年代に入り、YouTubeやスポーツイベントでの共演を通じて、二人は少年のような笑顔で互いの野球人生を語り合う姿を見せています。光と影、栄光と挫折のすべてを飲み込んだKKコンビの半世紀は、二人の間にしか通じ合えない魂の絆として、今なお多くのプロ野球ファンの胸を打ち続けています。