日本の名字史を専門とする家系図研究者らの調査によると、渡辺姓の由来とルーツは平安時代中期の武家集団にまで遡ります。その祖と仰がれるのは、第52代嵯峨天皇の皇子・左大臣の源融(みなもとのとおる)を祖先とする「嵯峨源氏」です。
源融の玄孫にあたる平安時代の名将・源綱(みなもとのつな)は、摂津国西成郡渡辺津(現在の大阪市中央区・天満橋から淀屋橋にかけての旧淀川河口付近)に本拠地を構えました。綱はこの港湾要衝の地名を冠して「渡辺綱(わたなべのつな)」と名乗るようになります。彼は名将・源頼光に仕え、「頼光四天王」の筆頭として京都の大江山における酒呑童子退治や、一条戻橋での鬼の腕切り伝説で勇名を馳せました。今なお全国の渡辺家では「鬼が渡辺綱を恐れて寄り付かないため、節分に豆まきをする必要がない」という言い伝えが残るほど、その武名は後世に強い影響を与えています。
渡辺綱の子孫は「渡辺党」と呼ばれる武士団を形成し、大阪湾や瀬戸内海の水軍を率いて全国へと進出しました。では、単一の武士団ルーツを持つ名字において、渡辺漢字なぜ多い理由とは何だったのでしょうか。歴史の史料検証から以下の2大要因が浮き彫りになっています。
第一の要因は、明治初期の行政混乱と役場書記官の筆癖です。1872年(明治5年)の壬申戸籍編纂、および1875年(明治8年)の「平民苗字必称義務令」により、すべての国民が名字を名乗ることになりました。当時、字が書けない庶民に代わって戸籍を筆写したのは、各地の役場にいた役人や寺子屋の師匠たちでした。毛筆による手書きであったため、行書や草書の崩し方、略し方、点ひとつ払いの向きに至る「個人の癖」がそのまま公帳に墨書され、法的な正式名称として登録されてしまったのです。
第二の要因は、本家と分家を識別するための意図的な改字です。明治期から昭和初期にかけて、日本の家制度(イエ制度)の下では「本家に対する遠慮」や「分家としてのアイデンティティ保持」が強く意識されました。「本家が正字の渡邊を使っているため、分家した我が家は点を一つ増やした異体字にする」「あえて俗字の渡邉を用いて血統の枝分かれを明確にする」といった一族内の取り決めが各地で行われ、結果として「邊」の派生字が幾重にも増えていく土壌が完成しました。