おおかみこどもの雨と雪がジブリと誤認される理由|細田守の因縁と真実

おおかみこどもの雨と雪がジブリと誤認される理由|細田守の因縁と真実

おおかみこどもの雨と雪がジブリと誤認される理由|細田守の因縁と真実に関する専門家の意見を丁寧に解説いたします。

「ジブリ作品ではない」という事実の裏には、アニメーション史に刻まれるべき細田守監督とスタジオジブリの浅からぬ因縁が横たわっています。時計の針を1991年まで巻き戻すと、大学を卒業した若き細田守氏は、スタジオジブリの第2期研修生採用試験を受験していました。結果は不合格でしたが、試験直後、宮崎駿監督から直筆の手紙が届いたというエピソードは業界内で語り草となっています。

関係者の証言や当時の取材記録によると、手紙には「君のような人間を入れると、かえって君の才能を削いでしまう。自分の場所でその才能を伸ばすべきだ」という趣旨の異例の賛辞が綴られていたと伝えられます。東映アニメーションに入社した細田氏は、『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』(2000年)などで業界内外にその天才的演出力を知らしめ、若手随一のトップランナーへと駆け上がりました。

その才気を誰よりも買っていたのが、他ならぬスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーでした。2000年秋、ジブリは次回作として予定されていた『ハウルの動く城』の監督として、社外から細田守氏を電撃抜擢します。ジブリ生え抜きではない外様のエースによるジブリ映画の誕生——しかし、この挑戦は過酷を極める悲劇へと暗転しました。

当時のジブリ社内は『千と千尋の神隠し』の過酷な制作ピークに追われており、細田氏に割り当てる制作スタッフがスタジオ内に確保できない異常事態に陥ったのです。細田氏は自ら外部のアニメーターを一本釣りで集めるべく奔走したものの、最終的に企画は頓挫。細田氏は事実上の監督降板を余儀なくされ、ジブリを去ることになりました。その後、『ハウルの動く城』は宮崎駿監督自身の手によって再始動し、2004年に公開されて歴史的大ヒットを記録します。

すべてを失い、東映アニメーションへ戻った細田氏には「ジブリから放逐された監督」という冷ややかな視線が向けられ、業界内での再起は絶望視された時期もありました。しかし、この底知れぬ挫折こそが、後に『時をかける少女』(2006年)、『サマーウォーズ』(2009年)というオリジナル快作を生み出し、宮崎駿の庇護下ではない自前の制作拠点「スタジオ地図」を立ち上げるための強力なエンジンとなったのです。

渡辺 美咲
著者

渡辺 美咲

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。