ドイツの進出に危機感を抱いたのはイギリスだけではありません。不凍港と黒海・地中海への出口を求めていたロシア帝国にとっても、ドイツのオスマン帝国接近とバルカン半島への浸透はバルカン・ボスフォラス海峡政策に対する直接的な挑戦でした。
こうして、ビスマルク時代には考えられなかった国際秩序の再編が急速に進展します。イギリスは伝統的な「光栄ある孤立」を放棄。1902年の日英同盟締結に続き、1904年にはアフリカの権益を調整してフランスと英仏協商を結びます。さらに1907年には中東・中央アジアの利権を分割・妥協して英露協商を締結。ここに、フランス・ロシア・イギリスによる対独包囲網「三国協商」が完成しました。
包囲網に直面したドイツは、同盟国であるオーストリア=ハンガリー帝国への依存度を高めていきます。これがバルカン半島における民族対立を一段と先鋭化させました。
ドイツ・オーストリアが推し進める汎ゲルマン主義(ゲルマン民族の団結と南東進出)と、ロシアが後援するセルビア主導の汎スラヴ主義(スラヴ民族の統一と自立)がバルカン半島で正面衝突。「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたこの地域で火種が燻り続け、1914年6月28日のサラエボ事件をきっかけに連鎖反応を起こし、第一次世界大戦の勃発へと雪崩れ込んでいったのです。