ネット上や歴史ファンの間で長年議論の的となってきたのが、「平家物語に出てくる祇園精舎の鐘は実在したのか」という疑問です。結論から述べると、古代インドの仏教寺院であった祇園精舎に、日本の寺院にあるような青銅製の巨大な梵鐘(ぼんしょう)は存在しませんでした。
仏教学および仏教考古学の調査データによると、お釈迦様(釈尊)の時代から古代インドの僧院において時報や集会の合図として用いられていたのは、「犍稚(けんだ/サンスクリット語でカンディ=ghaṇṭī)」と呼ばれる木製の打板でした。木を打ち鳴らして「カンカン」と乾いた高音を響かせる道具であり、私たちが除夜の鐘などで耳にする重厚で低く余韻の長い「ゴーン」という金属音とは根本的に異なるものです。
唐代の高僧・玄奘三蔵が著した『大唐西域記』や、義浄が持ち帰った『根本説一切有部毘奈耶雑事』などの一次史料を精査しても、僧侶の死に際して鳴らされたのは「無常堂(病室)の四隅に設けられたガラス製や銀製の鈴、あるいは打楽器」と記述されており、日本人が想起する釣鐘の描写は見当たりません。
では、なぜ『平家物語』の作者は「鐘の声」と記したのでしょうか。そこには、古代インドの仏典がシルクロードを経て中国へ伝わる際、漢訳仏典において「犍稚」や「鈴」が一括して「鐘」と意訳された言語的背景があります。さらに平安・鎌倉時代の日本人は、中国から伝来した高度な鋳造技術による梵鐘の深く澄んだ余韻に「無常の情感」を重ね合わせました。つまり、祇園精舎の鐘の声とは、インドの仏教説話、中国の漢訳表現、そして日本中世の美意識が重なり合って結晶化した、極めて高度な文学的シンボルなのです。
なお、祇園精舎の場所と現在について触れておくと、遺跡はインド北部ウッタル・プラデーシュ州のサヘート・マヘート(古代の舎衛城/シュラーヴァスティー)に現存しています。かつて豪商スダッタ(給孤独長者)とジェータ(祇陀)太子が寄進した壮大な僧院跡は、現在では穏やかな仏教聖地公園として整備され、世界中から巡礼者を集めています。