「水が存在しない天体に、なぜ海という地名が定着したのか」——この疑問の原点は、望遠鏡が天文学の扉を開いた17世紀初頭の視覚的錯覚に遡ります。
1609年、イタリアの物理学者ガリレオ・ガリレイは自作の望遠鏡を月へ向け、月面が滑らかな球体ではなく、無数の凹凸や谷、平原に満ちている事実をスケッチに残しました。その著書『星界の報告(Sidereus Nuncius)』(1610年刊行)の中で、ガリレオは明るく輝く部分を陸地、暗く平らな部分を水が溜まった水域と推測しました。当時の光学レンズの解像力では、暗色を呈する平坦な地形が「光を吸収して反射しない広大な海原」に見えたことは、極めて自然な帰結でした。
科学の進展によって、その暗い平原の正体が水ではなく、約31億〜39億年前に噴出した玄武岩質の溶岩流が衝突盆地を埋め尽くした「溶岩平野」であることが判明します。玄武岩には鉄やチタンといった鉱物が多く含まれるため、太陽光の反射率(アルベド)が約7〜10%と極めて低く、白っぽい斜長岩で構成された高地(反射率約20〜25%)に比べて黒ずんで見えます。物理的な液体水が存在しないと確定した後も、天文学界の歴史的敬意と地形識別の利便性から、ラテン語の「Mare(マーレ:海)」という呼称が国際天文学連合(IAU)によって正式に受け継がれました。