Q1:武田信玄の本拠地だった甲斐国(現在の山梨県)には、なぜ巨大な城がなかったのですか?
A1:武田信玄が「躑躅ヶ崎館」のような平地の館を拠点としたのは、国境の峻険な山々そのものを外郭の防壁として捉えていたためです。また、強大な城郭を建設することは領民に莫大な労役と不満を課すことになるため、「領民の信頼と家臣の結束こそが最大の城壁である」という統治思想を具現化した結果でもありました。なお、武田家滅亡後に豊臣系大名や徳川氏によって近世城郭である甲府城が築かれました。
Q2:信玄の死後、なぜ嫡男の武田信勝ではなく勝頼が当主になったのですか?
A2:信玄の正嫡であった武田義信が廃嫡・自刃したため、諏訪氏を継いでいた勝頼(諏訪勝頼)が急遽呼び戻されました。しかし、保守的な譜代家臣団の中に「諏訪の血を引く勝頼」への警戒感があったため、信玄の遺言により、勝頼は信勝が元服するまでの「陣代(後見役・代行)」という極めて曖昧な立場で実権を握ることになりました。この権力基盤の不安定さが、家臣団統率の難しさに直結しました。
Q3:信玄堤は現在でも洪水防止の役割を果たしているのですか?
A3:現在でも現役の治水施設として機能しています。山梨県甲斐市に残る信玄堤周辺は公園として整備されているだけでなく、水防林(御勅使川や釜無川沿いの竹林)や霞堤の構造は現代の河川工学の基礎となっており、日本の伝統的河川工法の最高傑作として高く評価されています。