現在でこそ洗練されたショップやレストランが軒を連ねる賑やかな空間ですが、横浜赤レンガ倉庫歴史と保存の経緯を紐解くと、幾度となく廃墟化と完全解体の瀬戸際に立たされていた過酷な事実が浮かび上がります。
正式名称を「新港埠頭保税倉庫」と呼ぶこの施設は、明治政府が近代港湾の整備を急ぐなか、大蔵省臨時建築部の建築家・妻木頼黄(つまき よりなか)らの設計によって建設されました。2号倉庫が1911年(明治44年)、1号倉庫が1913年(大正2年)に竣工。当時の最先端技術であった鉄骨煉瓦造や日本初の荷物用エレベーター、スプリンクラー設備を備えた、国の威信をかけた国家プロジェクトでした。
しかし、その歩みは試練の連続でした。1923年の関東大震災で1号倉庫の中央部が崩壊し、規模が約半分へと縮小。太平洋戦争末期には米軍による空襲に晒され、終戦直後には港湾一帯が米軍に接収されて港湾機能を完全に喪失しました。1956年の接収解除後も、世界の物流がコンテナ船主流へとシフトするにつれて倉庫としての役目を終え、昭和の終わりには窓ガラスが割れ、蔦が絡まる「港の廃墟」として放置されていたのです。
当時の大蔵省内部では、老朽化と耐震基準の未達を理由に「全面解体して用地を更地化する」計画が現実味を帯びていました。しかし、1980年代後半に立ち上がった横浜市の都市計画担当者や市民運動がその流れを押し留めます。1992年に横浜市が国から土地と建物を買い取り、約9年もの歳月と莫大な予算を投じて構造補強・耐震改修を実施。歴史的意匠を極限まで保全したまま、2002年に文化・商業施設として奇跡的なリニューアルオープンを果たしました。壁面に残る震災時の補修跡や焦げ跡は、激動の近現代史を生き抜いた生きた証拠です。