上杉謙信が名門「上杉」の姓と「竹に雀」の家紋を正式に受け継いだ背景には、戦国期東日本の政治秩序を揺るがす大事件がありました。
もともと謙信は、越後守護・上杉氏の家臣筋である「越後守護代・長尾為景」の末子として生まれました。幼名は虎千代、元服後は長尾景虎と名乗っており、当時の家紋は当然ながら長尾家の「九曜巴」でした。
しかし、小田原北条氏の侵攻によって本拠地・上野国(群馬県)を追われた関東管領・上杉憲政が越後へ逃れ、景虎に救援を求めたことで歴史が大きく動きます。
永禄4年(1561年)3月、鎌倉の鶴岡八幡宮において、憲政から景虎への「関東管領職ならびに上杉宗家の家督相続の儀式」が執り行われました。このとき、景虎は名を「上杉政虎(のちに輝虎、出家して謙信)」と改め、上杉家の血統の証である「竹に雀」の家紋、重宝、系図を一括して譲り受けたのです。
これにより、長尾景虎は単なる越後の一戦国大名から、東国武士の頂点に立つ正統な秩序の代弁者へと飛躍しました。謙信が武田信玄や北条氏康に対して「私利私欲の領土拡張ではなく、幕府法秩序の回復のための出兵」という大義名分を掲げ続けられたのは、この上杉家の名跡と家紋がもたらす絶大な正統性があったからに他なりません。
謙信の死後、跡目を巡る「御館の乱」を制した養子・上杉景勝によって「竹に雀」と各種家紋は確実に継承され、米沢藩主として幕末・明治に至るまで上杉家の象徴として輝き続けました。