ファンの間で「森見登美彦の最高傑作はどれか」という議論が交わされる際、必ずと言ってよいほど意見は2つの陣営に二分されます。一方は初期の「祝祭的エンタメ派」、もう一方は後期の「メタ幻想文学派」です。
祝祭的エンタメ派が最高傑作として挙げるのは、圧倒的多数で『夜は短し歩けよ乙女』か『有頂天家族』です。この陣営が支持する理由は、登場人物たちの愚行に対する肯定的な眼差しと、テンポの良い喜劇構造にあります。理屈をこねくり回す不器用な青年が、偶然と奇跡の連鎖によって救われる展開は、エンターテインメント小説として非の打ち所がない完成度を誇っています。
一方で、読書歴の長い愛好家や文芸評論家が最高峰に推すのが『熱帯』です。「千一夜物語」を下敷きに、物語の中に物語が無限に内包されていく入れ子構造を採用した本作は、読者自身がどこまでが現実でどこからが虚構なのかを見失う眩暈(めまい)を体験させます。物語を生み出すこと自体の根源的な欲望に迫った本作は、単なるコメディ作家の枠を超え、世界文学の領域に足を踏み入れた野心作として高く評価されています。
さらに、2024年に刊行された『シャーロック・ホームズの凱旋』の評判がこの議論に新たな火をつけました。舞台を霧深きロンドンに据えつつ、事件を解決できない「スランプの名探偵」を描いた本作は、著者が自らの執筆不能状態と向き合い、格闘した内省録でもあります。「初期の爆笑を期待すると面食らうが、人間の弱さと創作の業を描いた深みにおいては著者のキャリア最高点」という声が多く、初期作とは異なる次元で最高傑作に推されるケースが目立ちます。