明智光秀の実像を語るうえで、ネット上や俗説で流布している誤解を是正することは欠かせません。戦国史研究の進展により、従来の「前半生がまったくの謎に包まれた出自不明の男」という言説には修正が迫られています。
光秀の生年は1516年説と1528年説があり、正確な出生時期は今なお議論が続いていますが、美濃の名門・土岐氏の支流である明智氏の出身であることは一次史料からも裏付けられています。越前の朝倉義景に仕えていた時期に高度な典礼儀礼や教養、そして当時最新鋭の兵器であった鉄砲の運用術を修得していたことが、後の信長への仕官において決定的な強みとなりました。
光秀が信長家臣団の中で異例のスピード出世を遂げた理由は、感情論ではなく卓越した官僚的能力と軍事指揮能力にありました。近畿各地の国人領主を束ねる調整力、坂本城や福知山城を築城した卓越した縄張り技術、さらには領民に慕われた「善政」の記録は、丹波や近江の各地に数多く残されています。「三日天下」という言葉の響きから無計画な謀叛者とみなされがちですが、実態は織田政権の屋台骨を支えた最も有能なエグゼクティブ官僚だったのです。敗者となったがゆえに勝者である豊臣・徳川政権下で歪められて記録された情報を、一次史料と切り離して検証することが重要視されています。