稲荷崎高校を語る上で欠かせないのが、3年生の主将でありながらスターティングメンバーではない北信介という特異な存在です。彼の放った「喝采は要らん ちゃんとやんねん」という名言は、スポーツ漫画史に残る規律の美学として知られています。
北は、天才的な身体能力を持つわけでも、派手なスパイクを叩き込むわけでもありません。食事、掃除、体調管理、日々の反復練習を寸分違わず「丁寧」に行い続ける人物です。そんな彼がユニフォーム(背番号1)を受け取った際、祖母の前ではなく、監督やチームメイトの前で思わず涙をこぼしました。感情を表に出さない合理主義者の北が、なぜあの瞬間、涙を流したのか。
その涙の理由は、決して「スタメンになれたから」でも「努力が報われたから」でもありません。北自身が語るように、「結果はあくまで筋肉や動作の副産物に過ぎない」と考えていたにもかかわらず、日々の積み重ねという「過程(プロセス)」を他者から認められたことに対する、人間としての純粋な心の震えでした。
宮兄弟のようなバケモンたちが「今日もっと美味い飯を食う」ために過去を置き去りにして突っ走るのに対し、北は「今日を丁寧に生きる」ことで過去を血肉に変えていく。「思い出なんかいらん」という横断幕は、一見すると北の几帳面な日常主義と対立するように思えます。しかし本質は同じです。昨日の感傷に浸るのではなく、今日なすべきことをちゃんとやる。北の存在こそが、稲荷崎の「現在志向」を浮ついた無謀さから、強固な実力へと昇華させていたのです。