712年に編纂された『古事記』、そして720年の『日本書紀』。大和朝廷が自らの統治の正当性を内外に示すために編纂したこれら「記紀」には、伊弉諾尊(イザナギ)の禊から生まれた天照大神、素戔嗚尊(スサノオ)、月読命(ツクヨミ)といった主神たちが詳細に記録されています。ところが、神道において最も神聖な儀礼に用いられる「大祓詞」で祓戸四神の筆頭として登場する「瀬織津比売(瀬織津姫)」の記述は、記紀の本文から完全に抜け落ちています。
國學院大學や皇學館大学の研究者らが指摘する通り、古代日本の国家形成期において、歴史書の編纂は純粋な信仰の記録ではなく極めて高度な「政治工作」でした。7世紀後半、天武天皇から持統天皇の治世、そして藤原不比等が権力を掌握した時代、朝廷の絶対目標は「天武・持統水脈による天孫降臨神話の一元化」でした。当時、大和朝廷に服属する以前の有力豪族たちが祀っていた土着の強力な神々は、天孫族の神話体系に組み込まれるか、あるいは名前を剥奪される運命をたどったのです。
瀬織津姫は本来、急流の川瀬にあって人々の罪や穢れを海の底へと押し流す「川と水流の激しい神威」を司る水神であり、同時に荒ぶる力を象徴する軍神・祓神でもありました。歴史学者らの考証によれば、この女神は畿内や瀬戸内海、さらには東国に勢力を持っていた古代豪族、特に物部氏や出雲系の部族が篤く奉斎していた水神・龍神の系統であった可能性が極めて濃厚です。朝廷は、国家統合の象徴として天照大神を「慈愛に満ちた唯一無二の太陽神」として絶対化するにあたり、強力すぎる水神・荒神としての瀬織津姫の神格を正史からパージし、祝詞の奥深くへと押し込める決断を下したと考えられます。