黄泉の国の軍勢に追われたイザナギは、髪飾り(黒御鬘)や櫛を投げつけて追手を足止めしながら、現世と黄泉の国の境界である「黄泉比良坂(よもつひらさか)」の坂元まで逃げ延びます。そこで彼が取った最後の手段が、坂の麓に生えていた桃の実を3個もぎ取って投げつけることでした。
すると、猛追していた黄泉の軍勢はことごとく退却しました。この功績により、イザナギは桃の実に対して「意富加牟豆美命(オオカムヅミノミコト)」という神名を授け、「現世の人々が苦難に陥ったときにも助けてやってほしい」と命じています。
古代信仰における「桃」の強力な魔除けの力
なぜ桃だったのか――。その背景には、古代中国から伝来した道教的な桃信仰と、日本古来の呪術観の融合があります。奈良県の纏向(まきむく)遺跡をはじめとする初期ヤマト王権の祭祀遺跡からも、2000個を超える桃の種が出土しており、桃が邪気や悪霊を祓う最強の呪具として扱われていたことが考古学的にも実証されています。
さらに神話のクライマックスでは、イザナギは巨大な「千引の岩(ちびきのいわ)」で黄泉比良坂を塞ぎます。岩を挟んで向き合った二神の間で、有名な呪詛と誓約が交わされます。
「愛しい夫よ、あなたがこのような仕打ちをするなら、私はあなたの国の人間を1日に1000人絞め殺しましょう」(イザナミ)
「愛しい妻よ、お前がそうするなら、私は1日に1500の産屋を建てよう」(イザナギ)
この瞬間、日本神話において「人間の寿命と人口増加の摂理」が決定づけられました。黄泉の国からの脱出劇は、個人的な男女の破局を通じて、生命の循環という壮大な生命原理の誕生を描いているのです。