「鈴ヶ森刑場で牛裂きが行われていた」という言説は、怪談や都市伝説として広く知られています。しかし、品川の鈴ヶ森刑場(1651年開設)や南千住の小塚原刑場(1651年移転開設)において、幕府の公式記録(『御仕置例類集』など)に牛裂きを執行したという確証ある公的文書は見当たりません。
ではなぜ、鈴ヶ森刑場が牛裂きの代名詞のように語られるようになったのでしょうか。その背景には、江戸期を通じて鈴ヶ森で行われた「火炙り(放火犯など)」や「磔(大逆・主殺しなど)」の凄惨な光景が、後世の講談や歌舞伎の演目で誇張された経緯があります。鈴ヶ森の処刑場跡に残る「磔用の角材を立てた角穴の台石」や「火炙り用の丸穴の台石」が、いつしか来訪者の想像力を刺激し、「牛を繋いだ石ではないか」といった俗説へ変化していったと考えられています。
江戸の二大処刑場は、東海道や日光街道沿いという「江戸の境界線」に意図的に配置されていました。旅人や庶民への絶大な心理的抑止力を担っていた場所だからこそ、後世に最も残虐な処刑方法の舞台として結び付けられて語られる土壌が形成されたのです。