日本語教育や言語学において、指示語の使われ方は大きく「現場指示(言及対象がその場にある)」と「文脈指示(言及対象が言葉や記憶の中にある)」の2つに二分されます。大人の日常会話やビジネスシーンで指示語の使い分けが破綻する決定的な原因は、この文脈指示における「あ系列」と「そ系列」の選択基準を誤認している点にあります。
現場指示では、目に見える位置関係に従えば済みます。しかし文脈指示では、物理的な距離ではなく「その情報が話し手と聞き手の頭の中でどう共有されているか」という心理的・知識的テリトリーによって選択が決定されます。ここに大人がつまずきやすい言語心理の落とし穴が存在します。
具体例を挙げてみましょう。過去の出来事や人物について語る際、以下の2つの表現には決定的なニュアンスの違いがあります。
例文A:「昨日、田中さんに会ったよ。あの人、転職するらしいね」
例文B:「昨日、田中さんに会ったよ。その人、転職するらしいね」
例文Aの「あの人」が成立するのは、話し手だけでなく聞き手も「田中さん」を直接知っており、「お互いの記憶の中に共通して存在する人物」として認識している場合に限られます。遠称の「あ系列」は、話し手と聞き手の双方が直接知っている事柄を指す際に用いられるからです。
一方、もし聞き手が田中さんのことを全く知らない初対面の間柄であれば、聞き手側は「あの人って誰ですか? 私も知っている人ですか?」と強い違和感を覚えます。聞き手が知らない情報を指す場合は、聞き手にとって未知の領域に属する情報として中称の「そ系列」を用い、「昨日、田中さんという方に会ったよ。その人が言うには……」と表現しなければなりません。
大人が誤用しやすい日本語指示語の典型は、自分だけが知っている一方的な記憶を「あの件」「あのトラブル」とあ系列で呼んでしまい、相手を置き去りにするケースです。心理言語学における「共有知識(コモン・グラウンド)の錯覚」が、指示語のたった1文字の選択によって露呈してしまうのです。