現在、石狩平野を衛星写真や地図で俯瞰すると、整然とした直線流路の周囲に、三日月形をした無数の池や沼が点在していることに気付きます。これらこそが、かつて石狩川の本流だった場所が切り離されて残った「河跡湖(三日月湖)」です。なぜ自然の流路がこれほど劇的に変貌を遂げたのか、その背景には石狩川における過酷な治水の歴史が存在します。
明治期の北海道開拓当初、石狩川流域は泥炭地が広がる湿地帯であり、ひとたび大雨が降れば川は容易に氾濫し、平野全体が泥海と化しました。特に明治31年(1898年)の大洪水は壊滅的な被害をもたらし、入植者たちの暮らしを根底から揺るがしました。開拓を推進し農地を拓くためには、暴れ川を制御することが絶対条件だったのです。
ここで主導されたのが、蛇行した川の首部を人工的に切り落として流れを直線化する「捷水路(しょうすいろ)工事」です。内務省の技術者・岡崎文吉らが提唱した自然の力を利用する治水思想や、欧米の近代土木技術を導入し、大正時代から昭和にかけて大規模なショートカット事業が推進されました。
計画的に開削された捷水路工事の経緯を辿ると、合計29箇所にも及ぶ直線化工事が行われました。その結果、蛇行していた約364kmの流路は一気に約100kmも短縮され、現在の268kmへと姿を変えたのです。短縮されたことで洪水の流下能力は飛躍的に向上し、水が引いた湿地帯は日本屈指の穀倉地帯へと生まれ変わりました。切り離された旧流路は水流を失い、取り残された結果が現在の三日月湖が平野部に多数点在する工学的理由です。