平安時代の貴族社会では、庭園の花を愛でる「花合わせ」や宮中行事での鑑賞が盛んでしたが、生け花が独自の造形芸術として確立されたのは室町時代中期のことです。
八代将軍・足利義政が築いた東山文化の時代、書院造と呼ばれる建築様式が完成し、部屋の一角に「床の間」が設けられました。この空間を荘厳にするため、池坊専慶(いけのぼうせんけい)や池坊専応(せんおう)といった名手が活躍し、室町時代立花の成立(たてばな)を果たします。専応が著した『池坊専応口伝』には、「単に色や形の美しさだけでなく、枯れた枝や曲がった草木にも自然の風情を見出す」という、日本固有の自然観が明文化されています。
立花は、1本の幹を中心に複数の役枝を厳格なルールで組み合わせ、大自然の山水を1つの花器の中に再現する雄大な様式でした。しかし、この豪華絢爛で格式高い立花に対抗する形で、安土桃山時代に新たな潮流が生まれます。それが茶の湯と生け花千利休による「なげいれ花(茶花)」の誕生です。
利休は「花は野にあるように」という有名な言葉を残しました。立花のような技巧や権威主義を徹底的に削ぎ落とし、素朴な竹筒や陶器に、季節の野花を一輪か二輪、自然の佇まいのまま挿す「引き算の美学」を提示したのです。この極限のシンプルさは、戦国武将たちが命のやり取りの中で求めた静寂の精神と深く合致しました。
江戸時代に入ると、世情の安定と町人階級の経済的台頭により、生け花はさらなる転換期を迎えます。格式が高すぎる「立花」と、簡素すぎる「茶花」の中間に位置する「生花(しょうか / せいか)」が考案され、武士だけでなく町民の間でも爆発的なブームを巻き起こしました。この時期に多数の流派が誕生し、花道指南書が次々と出版されることで、生け花は庶民文化として成熟していきました。