「羊を追いかける犬」を目にした多くの人が抱く最大の謎は、「なぜ犬は羊を殺して食べてしまわないのか」という点に集約されます。動物行動学の視点から見ると、牧羊犬が羊を追う理由は「獲物を捕食する一連の行動(プレデトリー・シーケンス)」の巧みな遺伝的改変にあります。
イヌ科動物の狩猟行動は、本来以下のステップで進行します。
【定位・発見】 ➜ 【忍び寄り(ストーキング)】 ➜ 【追跡(チェイス)】 ➜ 【捕獲・噛みつき(グラブバイト)】 ➜ 【致命傷を与える(キルバイト)】
牧羊犬、とりわけボーダーコリーなどの誘導系犬種は、何世代にもわたる選択交配によって「忍び寄り」と「追跡」の衝動が極限まで強化される一方、「捕獲・噛みつき・殺傷」のステップが人為的にオミット(脱落)されています。つまり彼らにとって羊を追う行為は、人間に対する義務感や服従心からではなく、「獲物を狙い、間合いを詰めて追い込む」という本能的快感そのものを動機として実行されているのです。
さらに、彼らは羊に対して不用意に牙を剥くことはありません。姿勢を極限まで低く保ち、対象から目を逸らさずにじりじりと圧力をかける「アイ(The Eye)」と呼ばれる特有の視線テクニックを駆使します。羊側は肉食獣特有の捕食圧を感じてパニックになりかけるものの、犬が絶妙な制止位置(フライト・ゾーンの境界線)を維持するため、犬から逃げる方向へと自然に群れ全体が誘導されていきます。