大谷翔平が本格的に白球を握ったのは、姉体小学校3年生の秋でした。父・徹氏がコーチを務めていた水沢リトルリーグに入団した直後から、その身体能力は同世代の中で完全に異彩を放っていました。当時の東北地方のリトルリーグ関係者の間では、「水沢にとんでもない怪童がいる」という噂が瞬く間に駆け巡ることになります。
小学校高学年を迎える頃には、大谷翔平の少年時代を象徴する数々のエピソードがグラウンドで現実のものとなります。当時のリトルリーグにおける小学生投手の平均球速は90km/h前後でしたが、大谷の直球は推定110km/h〜115km/hに到達していました。マウンドからホームベースまでの距離が約14メートルと一般の野球(18.44メートル)より格段に短いリトルリーグにおいて、体感速度は130km/hを優に超えており、相手チームの打者はバットを振ることすら困難な状態に陥っていました。
象徴的なのが、小学校6年生の春季大会(対北上リトル戦)で打ち立てた伝説の記録です。6回完投でアウト18個中17個を三振で奪い、残る1つのアウトも内野への力のない小飛球。捕手を務めていたチームメイトの手が投球の衝撃で腫れ上がり、試合途中で捕手を交代せざるを得なかったという逸話は、誇張ではなく当時の関係者取材によって裏付けられている事実です。
さらに打者としても、大谷の打球はリトルの球場規格に収まりませんでした。水沢リトルの専用グラウンドは北上川の河川敷に位置していましたが、大谷の放つ本塁打はライトフェンスを遥かに越え、堤防や川原へと飛び込むことが日常茶飯事でした。ボールの紛失が相次ぎ、監督陣から「引っ張って打つな、流してセンターから逆方向へ打て」と厳命されたほどです。現在のメジャーで見せる、右中間・左中間方向へ軽々と放り込む広角打法の原型は、まさにこの小学生時代の物理的な制約から自然発生的に身についた技術でした。