しかし、独立王国の春は長くは続きませんでした。朝廷が将門討伐の祈祷を諸寺社に命じる一方、現地では将門の台頭を快く思わない実力者たちが包囲網を形成していました。その中心となったのが、かつて将門に父を討たれた従兄弟の平貞盛と、下野国の豪族で類まれな武勇を誇った藤原秀郷(俵藤太のモデル)です。
天慶3年(940年)2月、下総国猿島郡の北山原(現在の茨城県坂東市周辺)において、両軍は最後の決戦を迎えます。当時の将門軍は、農繁期が近づいていたため兵の大半を本貫地へ帰還させており、手元に残っていたのはわずか400余名に過ぎませんでした。対する貞盛・秀郷の連合軍は4000を超える大軍勢でした。
圧倒的な兵力差にもかかわらず、風上を取った将門は自ら馬を駆って奮戦し、連合軍を一時潰走寸前にまで追い詰めます。しかし、運命は突如反転しました。急に向きを変えた突風に煽られ、体勢を崩した将門の眉間を、敵の放った一筋の矢が貫いたのです。カリスマ指導者の非業の戦死により、坂東を席巻した大反乱はわずか2か月余りで呆気なく幕を閉じました。
この平将門の乱の結末と影響は、中世日本の幕開けを告げる巨大な地殻変動となりました。
- 朝廷の軍事能力の完全な破綻:貴族階級は自前の軍事力を持たず、反乱鎮圧を地方武士の私兵集団に丸投げせざるを得ない実態が露呈した。
- 軍事貴族(武士団)の公認:将門を討ち取った平貞盛や藤原秀郷は朝廷から破格の官位を授かり、その子孫は伊勢平氏(平清盛の祖)や奥州藤原氏など、後の武家社会を支配する名門へと飛躍した。
- 東国自治意識の種火:中央から独立した坂東政権の構想は、およそ250年後に源頼朝が創創設する「鎌倉幕府」の直接的な精神的先駆となった。