長宗我部元親はなぜ四国を制覇できたのか?知られざる真相と壮絶な生涯を徹底解説

長宗我部元親はなぜ四国を制覇できたのか?知られざる真相と壮絶な生涯を徹底解説

長宗我部元親はなぜ四国を制覇できたのか?知られざる真相と壮絶な生涯を徹底解説とはどのようなものなのか? 主要なファクトを簡潔に解説します。

天正3年(1575年)の一条兼定との「四万十川の戦い」に勝利し、土佐一国を完全掌握した元親は、阿波・讃岐・伊予への進出を本格化させます。このとき元親が外交の切り札としたのが、中央で覇権を握りつつあった織田信長との結託でした。明智光秀を取次役として誼を通じ、信長から「四国は切り取り次第(実力で手に入れた土地の領有を認める)」との朱印状を取り付けることに成功します。

しかし、元親の進撃が予想以上の速さで進むと、信長は政策を突如として転換します。羽柴秀吉の進言や三好康長(三好笑岩)の働きかけを受け、信長は元親に対し「土佐一国と阿波南部の領有のみを認め、他は返還せよ」と過酷な条件を突きつけました。元親がこれを拒絶すると、信長は三男・織田信孝を総大将とする大規模な四国征伐軍を編成。天正10年(1582年)6月、長宗我部家は絶体絶命の危機に直面します。

この壊滅の危機を劇的に回避させたのが、運命の「本能寺の変」でした。近年、明智光秀の重臣・斎藤利三と長宗我部元親の間で交わされた直筆書状(石谷家文書)が発見され、本能寺の変直前、元親が信長の要求に一部譲歩する旨を伝えていた事実が明らかになりました。信長の強引な路線変更に危機感を抱いた光秀が、縁戚関係にあった長宗我部家を救うために謀反に踏み切ったという「四国説」は、現代の歴史研究においても極めて有力な動機の一つとして再評価されています。

伊藤 翔太
著者

伊藤 翔太

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。