入院から半年後の1954年9月23日、無線長だった久保山愛吉氏(当時40歳)が息を引き取りました。被爆による最初の犠牲者となった久保山氏の死因について、当時アメリカ側は「輸血による血清肝炎が主因であり、放射能による直接死ではない」と主張し、責任回避を試みる政治的意図が見え隠れしていました。
しかし、重度の骨髄機能低下による免疫不全と、大量の放射線被曝による全身性の多臓器不全が肝不全を誘発したことは明白であり、日本側の医師団は放射線症に起因する死であると断定しました。
久保山氏が死の床で家族や関係者に絞り出すように伝えた最期の言葉、「原水爆の被害者は、私を最後にしてほしい」という遺言は、核兵器の残虐さを伝える象徴として全国民の胸に深く刻まれました。