かつての春日浦海岸は、別府湾の穏やかな波と見事な松林が広がる風光明媚な景勝地でした。大正から昭和初期にかけて開設された春日浦海水浴場は、大分市内のみならず近隣地域からも毎年十数万人規模の人出を集め、海岸沿いには海の家や保養施設が軒を連ねていました。当時の市史や春日浦海岸の昔の写真を振り返ると、青い海と白い砂浜、そして松の木陰で涼む家族連れの笑顔が鮮明に残されています。
この美しい海岸線が一変した契機は、昭和30年代半ばから始まった高度経済成長期の大規模開発構想でした。当時の大分県知事・木下郁氏らが推進した「産業立県」の旗印のもと、大分市・鶴崎市などの臨海部を一大重化学工業地域へ転換する計画が急浮上します。1964年(昭和39年)に国から「新産業都市」の指定を受けたことで開発は一気に加速。臨海部の浅瀬を埋め立てて巨大工場を誘致する国策プロジェクトが本格化しました。
当時、風光明媚な自然を失うことに対する反対意見や住民の葛藤も存在しましたが、大分を貧困と出稼ぎから救い、強固な産業基盤を築くという大義名分のもと、大分市春日浦の埋め立て経緯は決定的な転換点を迎えます。昭和30年代後半から40年代初頭にかけて砂浜は完全に重機によって埋め立てられ、鉄鋼・化学プラントが立ち並ぶ大分臨海工業地帯へと姿を変えていきました。