では、そもそもなぜ「神戸県」ではなく「兵庫県」となったのでしょうか。その謎を解き明かす鍵は、幕末の開港期と明治維新の激動期に起きた廃藩置県と兵庫県の歴史にあります。
まず押さえておきたいのが、兵庫県の名前の由来です。兵庫という地名は、古代・大化の改新(645年)の時代に、朝廷の武器庫(つわものぐら=兵庫)が置かれたことに端を発します。この地に栄えた港は「兵庫津(ひょうごのつ)」と呼ばれ、平安時代には平清盛が日宋貿易の拠点として大輪田泊(おおわだのとまり)を修築するなど、日本屈指の国際貿易港として1000年以上の歴史を積み重ねてきました。
一方の「神戸」という地名のルーツは、西暦201年創建と伝わる生田神社にあります。平安時代の『和名抄』にも記されている通り、神社の維持管理を任された民「神封(かんべ・じんぷ)」が暮らす集落であったことから「神戸郷」と呼ばれ、江戸時代には人口数百人規模の穏やかな農漁村である「神戸村」へと受け継がれました。
転機が訪れたのは1868年(慶応4年・明治元年)の神戸港開港の歴史です。日米修好通商条約では当初「兵庫開港」と定められていましたが、伝統ある商業拠点である兵庫津の住民の混乱を避けるため、幕府は東隣に位置する水深の深い神戸村の浜辺を実際の開港場に指定しました。同年、新政府は旧幕府領を接収して地方行政機関「兵庫裁判所」を置き、直後に「兵庫県」へと改組します。この時点で新政府の命名方針は、歴史的知名度が高い「兵庫」の名を採用することでした。
開港後の神戸港周辺は急速な近代化を遂げ、外国人居留地を中心に目覚ましい発展を見せました。しかし、県政の中心機関である兵庫県庁はそのまま兵庫宿周辺から神戸村へと移転しつつも、県名は「兵庫」のまま据え置かれました。その後、1876年(明治9年)にかけて飾飾県(播磨国)、豊岡県(但馬・丹波国の一部)、名東県(淡路国)が順次統合され、現在の広大な兵庫県が完成しました。このように、神戸県が存在しない理由は、「歴史ある港町・兵庫津の威名のもとに県が発足し、開港によって一寒村だった神戸が後から大都市へと大逆転した」という歴史のタイミングが生んだ必然だったのです。