多くの国民が「息子はシベリアの大地で非業の死を遂げたのだろう」と涙していた中、事態は1980年代初頭に急展開を迎えます。報道各社の調査および追跡取材により、息子・端野新二はソビエト連邦の地で生きていたという決定的な事実が判明したのです。
新二は敗戦の混乱とシベリアでの過酷な強制労働を生き延びた後、ソ連国内(現在のカザフスタンやシベリア・ノヴォシビルスク地域)に定住していました。現地の女性と結婚して家庭を築き、ソ連市民「国民技術者」として新たな人生を歩んでいたのです。なぜ新二は、日本で自分を待ち続ける母のもとへ帰国しなかったのか。そこには複数の複雑な事情が存在していました。
当時、冷戦下のソビエト連邦では元日本軍捕虜の自由な出国や情報発信が厳しく制限されていました。さらに、いせと新二は血のつながった実の母子ではなく、いせの元夫の甥を引き取って育てた「養子縁組」の関係であったという家庭の内情も関係していました。新二自身、母の愛情を理解しつつも、日本での過去と決別してソ連での生活を守る選択をせざるを得なかったと、後の現地取材で語られています。
1981年4月23日、いせは東京都内の病院にて81歳でこの世を去りました。息子が異国の地で生存しているという一報を耳にしながらも、直接抱き合う再会は生涯叶いませんでした。国家の戦争と国際政治の断絶によって引き起こされた、あまりにも残酷なすれ違いでした。