杉原千畝の功績を語る際、「外務省の命令を無視して独断でビザを出した反逆の英雄」という一面的なドラマ仕立てで理解されがちですが、公電の記録や歴史研究が示す現実はより複雑で切実なものでした。1940年7月、領事館を取り囲んだ数百人のユダヤ系避難民は、ナチス占領下のポーランドから逃れてきた人々であり、ソ連領内を通過して第三国へ出国するための「日本通過ビザ」を求めていました。
当時の外務省(松岡洋右外相)からの返信公電は、「行き先国の入国許可および十分な旅費を持たない者へのビザ発給は不可」という厳格な原則論を繰り返していました。当時の情勢下において、同盟関係を結びつつあったドイツへの外交的配慮や、国内治安の維持という官僚的な論理が優先されていたためです。しかし、退去期日が迫る中、避難民に残された選択肢はナチスの強制収容所への移送、すなわち確実な死を意味していました。
杉原は苦悩の末、領事の職権を極限まで拡大解釈し、要件を満たさない避難民に対しても通過ビザを自筆で発給し続ける決断を下しました。領事館が閉鎖され、カウナスを退去する1940年8月末の最後の瞬間まで、滞在先のホテルやカウナス駅のプラットホームに停車中の列車内からも、ペンが折れるまでビザを書き続け、最後は車窓から白紙の旅券に領事印だけを押して手渡したという証言が残されています。彼が救った命は、直截的な避難民約6,000人にとどまらず、その後に生まれた子孫を含めると数十万人規模に及ぶと推計されています。