水木しげる(本名・武良茂)が過酷な戦場へと駆り出された背景には、当時の軍隊組織が抱えていた冷徹な論理がありました。水木しげるの戦争体験の理由を紐解くと、1943(昭和18)年に赤紙(召集令状)を受け取り、鳥取歩兵第四十連隊に入隊したことから始まります。軍隊という画一的な集団行動が求められる環境において、マイペースで自由闊達な性格だった水木は上官から日常的にビンタや制裁を受け、いわゆる「問題兵士」の烙印を押されることになりました。
配属先を決める際、軍医から「北か南か」と問われた水木は「暖かい南がいい」と軽い気持ちで答えたといいます。その結果、送り込まれたのは南方戦線の最前線、地獄の激戦地として恐れられたニューブリテン島のラバウル戦線でした。当時、ラバウル周辺は連合軍の圧倒的な物量作戦によって制空権・制海権を完全に奪われ、補給を絶たれた日本軍兵士が次々と病死・餓死していく死の孤島と化していました。
水木が配属されたズンゲン支隊では、連合軍の上陸に伴い部隊がほぼ全滅する事態に陥ります。水木はジャングルを彷徨い、ワニの潜む川を泳ぎ渡りながら命からがら本隊へと帰還しました。しかし、そこで待っていたのは歓迎ではなく、「なぜ生きて帰ってきたのか」「生きて虜囚の辱を受けずの精神に反する」という軍幹部からの冷酷な叱責でした。
さらに過酷な運命が彼を襲います。水木しげるの左腕負傷の経緯は、1944年にズンゲンから後方のバイエンへと下がり、野戦病院付近に滞在していた際、敵機による激しい空襲を受けたことに端を発します。爆撃の破片によって左腕を粉砕された水木は、麻酔薬も十分にない劣悪な医療環境のなか、軍医によって左腕を切断する緊急手術を受けました。激痛と高熱、マラリアの併発によって生死の境を彷徨いながらも、彼は奇跡的に息を吹き返しました。
利き腕であった右腕が残ったこと、そして療養中に現地の先住民族であるトライ族の人々と心を通わせ、家族のように受け入れられたことが、水木のその後の人生観と創作の原動力となったことは広く知られています。