劇中で「神秘と魅惑の都」と歌われるアグラバー(Agrabah)ですが、結論から言えば地球上のどの地図にも存在しない完全な架空の都市国家です。しかし、この都市がなぜ生まれたのかという制作の経緯には、極めて生々しい現実の国際情勢が深く刻まれています。
当時の制作陣であるジョン・マスカー監督とロン・クレメンツ監督が映像ソフトのメイキングインタビューで公式に明かしている通り、1980年代末の初期プロット段階における舞台設定は、イラクの実在する首都「バグダッド」そのものでした。原作のベースとなったアラビアン・ナイトの多くがアッバース朝期のバグダッドを舞台としていたため、極めて自然な選定だったといえます。
情勢が一変したのは、制作が本格化していた1990年の湾岸戦争の勃発でした。アメリカをはじめとする多国籍軍とイラクの間で激しい戦闘が繰り広げられる中、ファミリー向けエンターテインメントの舞台として実在のバグダッドを掲げ続けることは政治的・倫理的に極めて困難となったのです。そこで制作陣は、都市名をアナグラム(文字の入れ替え)や独自の語感調整によって改変し、特定の現存国家と直接結びつかないファンタジー都市「アグラバー」を仕立て上げました。現実の地政学リスクを回避するための苦渋の決断が、結果として後世まで続く多国籍なハイブリッド世界観の礎となったわけです。