大和国における鹿島・香取信仰を語る上で欠かせないのが、藤原氏(中臣氏)の氏神政策です。奈良時代後期の神護景雲2年(768年)、藤原永手らによって平城京の鎮護を目的に春日大社が造営された際、第一殿に鹿島神宮の武甕槌命、第二殿に香取神宮の経津主命が勧請されました。
白鹿の背に乗って鹿島から奈良の御蓋山(みかさやま)へ神霊が遷座したという有名な「神鹿伝説」は、一見すると純粋な東国からの神威導入に見えます。しかし政治力学的に分析すると、中臣氏は古くから常陸国・鹿島の神職(鹿島神主家)と血縁的・祭祀的に直結していました。
藤原氏は大化の改新以降、朝廷内での覇権を確立するにあたり、自らのルーツである東国の軍事神(鹿島・香取)を国家最高レベルの武神として再定義しました。そして、古くから大和国内に存在していた在地祭祀を上書き・統合する形で春日大社へと集約したのです。すなわち、「大和の原初信仰 → 東国での軍事神化 → 平城京(春日大社)への凱旋的勧請」という壮大な神威還流のサイクルが存在したことが判明します。