武家社会における結婚は、家同士の同盟関係を結ぶための政略ツールでした。正室(本妻)は他家との政治的パワーバランスを保つ外交官のような存在であり、個人的な好意で選ばれることは稀でした。そこで重要となったのが側室(愛妾)制度です。
戦国大名が複数の側室を抱えた最大の理由は、言わずもがな「跡継ぎ(男児)の確保」にあります。当時の医学水準では成人できる子どもの割合が低く、正室一人に男子の出産を頼るのは家滅亡のリスクを高める行為でした。例えば、徳川家康は20人近い側室を持ち、多くの子を成すことで徳川一門の強固な基盤を築き上げました。
ただし、側室は単なる「子を生む道具」にとどまりません。家中での発言力を持ち、実家の後ろ盾を背景に政治的な影響力を行使する女性も少なくありませんでした。豊臣秀吉の側室である淀殿(茶々)のように、世継ぎである秀頼を産んだことで政権中枢の実権を握った例は、側室制度が戦国史の勝敗を左右した象徴と言えます。