鉄道開業当時の錦絵に描かれた「海の上を煙を吐いて走る蒸気機関車」の姿は、単なる誇張表現ではなく紛れもない事実でした。なぜ当時の明治新政府は、莫大な費用と高い土木技術を要する海上ルートを選ばざるを得なかったのでしょうか。
最大の理由は、兵部省(現在の防衛省に相当する軍部)の強固な反対にありました。国防上の観点や軍用地の防衛を理由に陸地への線路敷設を断固として拒否されたため、鉄道建設を主導していた大蔵大輔の大隈重信や英国人技師エドモンド・モレルらは、海上に幅約6.4メートルの堤防を築いて線路を通すという前代未聞の奇策を決断したのです。
当時、大蔵省で鉄道敷設事業を財政・実務面から強力に後押ししていたのが渋沢栄一でした。渋沢は日本の近代化には迅速な交通インフラの整備が不可欠であると確信し、限られた予算の調達や政府内の利害調整に奔走。江戸時代から培われた伝統的な石垣積みの土木技術と西洋の鉄道測量技術が見事に融合し、約2.7キロメートルに及ぶ壮大な海上築堤が完成しました。