秀長が体調を崩したのは、亡くなる約1年前の天正18年(1590年)頃からとされる。小田原征伐の最中、彼はすでに病床に伏しており、軍を率いて参陣することができなかった。当時の記録によれば、秀吉は弟の病平癒を願い、神社仏閣へ大規模な祈祷を命じている。しかし、その願いも虚しく、秀長の病状は悪化の一途をたどった。
大和郡山城で静養を続けていた秀長だが、その最期は静かなものではなかった。領国内の政務や、秀吉からの無理難題に対する調整業務が、病床の彼にも容赦なく押し寄せていたからだ。精神的な安息を得られないまま、彼は衰弱していった。