宮崎英高氏のゲーム作りの原点は、静岡県で過ごした極めて貧しい少年時代にあります。実家には本やゲームを買う余裕がなかったため、幼少期の宮崎氏は地元の図書館に通い詰め、手当たり次第に本を読み漁っていました。当時の宮崎少年は難解な漢字や文章をすべて理解できたわけではありませんでしたが、「理解できない部分を自らの想像力で補いながら読み進める」という体験を重ねます。この原体験こそが、のちに世界を震撼させる「プレイヤーの考察に委ねる断片的なストーリーテリング」の礎となりました。
高校卒業後、宮崎氏は名門である慶應義塾大学へと進学します。大学時代はゲーム制作とは直接関わりのない学問を修め、卒業後は外資系IT大手の日本オラクルへ就職。システムエンジニアやアカウントマネージャーとして手腕を振るい、順調なサラリーマン生活を送っていました。
転機が訪れたのは29歳のときです。友人の勧めで上田文人氏が手がけた名作ゲーム『ICO』をプレイした宮崎氏は、「ゲームという表現媒体にはこれほどの可能性があるのか」と強い衝撃を受けます。安定したキャリアを捨ててゲームクリエイターになることを決意した宮崎氏は、2004年にフロム・ソフトウェアへと中途入社。年齢と未経験であることがネックとなり多くのゲーム会社から不採用通知を受け取るなか、ポテンシャルを認めて受け入れたのが同社でした。