この名曲が生まれる契機となったのが、文禄5年(1596年)の年頭、京都・伏見にあった武将・福島正則の屋敷で繰り広げられた緊迫の酒宴です。この歴史的エピソードの詳細を追ってみましょう。
※京都市伏見区の御香宮神社前には現在も「黒田節誕生の地」の記念碑が建立されています。
黒田長政の厳命を背負った使者・母里太兵衛
当時、筑前領主・黒田官兵衛(如水)の嫡男である黒田長政は、伏見に滞在していた盟友・福島正則のもとへ新年の挨拶として家臣を遣わすことにしました。白羽の矢が立ったのが、黒田二十四騎の筆頭格であり、無類の剛勇と酒豪で知られた母里太兵衛(友信)でした。
しかし、福島正則もまた大酒飲みとして知られ、酔うと何をしでかすかわからない人物。長政は太兵衛に対し、「相手は酒癖が悪い。勧められても絶対に一口も酒を飲んではならない」と固く禁じて送り出しました。
大盃の挑発と「日本号」の賭け
正則の屋敷に到着した太兵衛は、すでに朝から泥酔状態の正則に出迎えられます。正則は「黒田の使者よ、まず一杯飲め」と勧めますが、太兵衛は主君の言いつけを守り、頑なに辞退し続けました。
これに気分を害した正則は、太兵衛を挑発し始めます。
「黒田の武士は酒も飲めぬ腰抜けばかりか。これを飲み干せぬとは情けない」
さらに正則は、すり鉢のような巨大な大盃(数升が入る大器)になみなみと酒を注がせ、天下の至宝を持ち出しました。
「この酒を見事に飲み干したならば、太閤秀吉様より拝領した天下三名槍『日本号』を褒美としてくれてやる!」
日本号は、正親町天皇から足利義昭、織田信長、豊臣秀吉を経て正則へと渡った、誰もが羨む国宝級の名槍でした。
鉄の意志で飲み干した大盃
主家と黒田武士の名誉を公然と侮辱された太兵衛は、ここで覚悟を決めます。静かに大盃を受け取ると、並み居る諸将が息を呑むなか、一滴も残さず見事に一気飲みしてみせました。さらにもう一杯を平然と空けたとも伝えられます。
太兵衛は狼狽する正則を前に、落ち着き払って名槍「日本号」を堂々と押し戴き、そのまま悠然と黒田屋敷へと引き揚げていきました。翌日、酔いから醒めて事の重大さに青ざめた正則は、重臣を遣わして槍の返還を懇願しましたが、太兵衛は「武士が公の席で口にした約束を違えるなど言語道断」と一蹴したと記録されています。