日本史の教科書や民俗エッセイにおいて、平賀源内のエピソードはあまりに鮮やかだ。本草学者であり戯作者、そして稀代の発明家。多彩な顔を持つ彼が夏の売れない鰻をヒット商品へと化けさせたという筋書きは、いかにも江戸の町人文化らしい痛快さに満ちている。だが、実証的な史料批判を行う近年の研究者たちは、この物語に慎重な眼差しを向けている。
源内が看板を書いたという明確な一次史料は、実のところ現存していない。当時の随筆『明和誌』や巷間の記録を見渡すと、丑の日に鰻を食べる慣習は源内の時代より以前から散発的に存在していた形跡がある。むしろ、当時すでに民間信仰として浸透していた「丑の日の食習慣」に目をつけ、それを決定的な流行へと昇華させたというのが冷静な歴史像だろう。個人の天才的ひらめきという神話は、後世の戯作者たちが物語を面白おかしく脚色する過程で補強された側面が強い。