このあまりに有名な導入部は、芭蕉がまったくのゼロから生み出したフレーズではありません。中国・唐代を代表する詩仙・李白が著した散文『春夜宴桃李園序(しゅんやとうりえんにえんするのじょ)』の一節を、見事なまでに自身の詩境へと換骨奪胎したものです。
【李白『春夜宴桃李園序』の冒頭】
「夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。而して浮生は夢の若し、歓を為すこと幾何ぞ。」
(そもそも天地という空間は万物を宿泊させる宿屋のようなものであり、光陰という時間は永遠に通り過ぎていく旅人である。そしてはかない人間の生は夢のようであり、人生で喜びを味わえる時間は一体どれほどあろうか。)
芭蕉の知性と編集センスの鋭さは、この李白の詩句をそのまま引き写すのではなく、大胆に空間(天地・逆旅)の要素を削ぎ落とし、時間(月日・過客)の流れに焦点を絞り込んだ点にあります。李白が「広大な宇宙(空間)と悠久の歴史(時間)」を対照させて人生の短さを嘆き、春の夜に桃李の園で酒宴を開いて楽しもうという遊楽へ向かったのに対し、芭蕉はその時間を「自分自身の足で歩く旅」へと接続させました。
さらに芭蕉は、貴族的な酒宴の席とは真逆に位置する「船頭」や「馬子」といった当時の庶民層の過酷な労働に言及します。「舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老を迎ふる者」という一文を挟み込むことで、悠久の哲学論を、泥臭い人間の現実生活の営みへと見事に着地させているのです。漢文特有の格調の高さと、和文が持つ情緒的なリズムを高度に融合させたこの文体は、近世文学史における「和漢混淆文」の到達点として高く評価されています。