延喜・天暦の治はなぜ理想とされたのか?平安親政の虚実と真相に迫る

延喜・天暦の治はなぜ理想とされたのか?平安親政の虚実と真相に迫る

延喜・天暦の治はなぜ理想とされたのか?平安親政の虚実と真相に迫るについて押さえておきたい ポイントを厳選して解説いたします。

延喜の治と天暦の治のちょうど中間に位置する朱雀天皇の時代、古代国家の存立を根底から揺るがす未曾有の軍事動乱が列島を襲いました。それが承平・天慶の乱(935年〜941年)です。関東において自らを「新皇」と名乗り朝廷からの独立を宣言した平将門の乱と、瀬戸内海の海賊を束ねて伊予国府などを襲撃した藤原純友の乱がほぼ同時期に発生しました。

この乱の根本原因は、まさに延喜期に行き詰まった地方支配システムにありました。朝廷から派遣される国司(受領)たちは、任期中に莫大な富を蓄財しようと地方豪族や百姓から苛烈な収奪を繰り返しました。これに激しく反発した現地の開発領主や有力農民層が武装し、自力で権益を防衛しようとした結果、誕生したのが初期の武士です。

平将門も藤原純友も、元を辿れば中央貴族の血を引くエリート層でした。しかし、中央での出世の道が閉ざされ、地方社会で軍事力と結びつくことで叛乱のリーダーへと変貌を遂げます。朝廷はこの非常事態に対し、自前の軍隊派遣では一切鎮圧することができず、同じ武士である平貞盛や藤原秀郷、源経基らの武力に依存して辛うじて乱を平定しました。

村上天皇の天暦年間は、この大反乱の爪痕が列島全体を生々しく覆っていた時期にあたります。武力によって反乱を抑え込んだ武士勢力(軍事貴族)は朝廷の警衛や地方統治に不可欠な存在となり、王朝国家は「武力の行使を専門職(武士)へ外注する」体制へと舵を切らざるを得なくなりました。天暦の治の穏やかなイメージとは裏腹に、地方では武士団の形成が加速度的に進み、中世武家社会へのカウントダウンは既に始まっていたのです。

中村 さくら
著者

中村 さくら

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。