大衆向けドラマや歴史小説の影響から、「伏見奉行所の本陣で近藤勇と土方歳三が並んで新選組を指揮していた」というイメージを持たれがちですが、これは史実と異なります。
開戦直前の慶応3年(1867年)12月18日、近藤勇は二条城からの帰途、伏見街道の墨染付近で御陵衛士の生き残り(篠原泰之進ら)による銃撃を受け、右肩に重傷を負っていました。そのため、鳥羽・伏見の戦いが勃発した際、近藤勇は大坂城で治療・療養中であり、前線となった伏見奉行所には不在でした。
絶望的な砲火の中で新選組の実質的な戦闘指揮を一手に担ったのは、副長・土方歳三です。
土方は奉行所の門前や堀を活用して頑強に防戦を指揮しましたが、最新鋭の施条砲とミニエー銃を装備した薩摩兵の火力差は如何ともし難く、井上源三郎をはじめとする幹部や多くの隊士が斃れました。後年の記録において土方が「武器は銃砲にあらざれば役に立たず」と痛感し、洋式軍備への完全刷新を決意した原点が、まさにこの伏見奉行所での苛烈な敗戦体験でした。