現在の世界的な聖地という姿からは想像しがたいことですが、終戦直後から昭和30年代にかけて、広島市内では被爆建造物の保存と解体議論が激しく渦巻いていました。
生き残った被爆者や市民の間では、「見るだけで家族を焼き殺された地獄を思い出す」「街の復興を妨げるおどろおどろしい残骸は早く撤去してほしい」という解体賛成論が根強く存在していました。一方で、「悲惨な戦争の教訓を後世に伝える記念碑として残すべきだ」とする保存論も芽生えていましたが、建物の老朽化が進むにつれ、壁の崩落事故が懸念される危険建造物として扱われていたのが実情です。
この硬直した状況を一変させたのが、一人の少女の遺した言葉でした。1歳で被爆し、16歳で白血病によって夭折した筧弘子(かけひ・ひろこ)さんの日記です。闘病生活の中で彼女が綴った「あのいたましい産業奨励館だけが、いつまでもおそるべき原爆を世にうったえてくれることだろう」という叫びが、死後に市民の心を激しく揺さぶりました。
1966年、広島市議会は満場一致でドームの「永久保存」を決議。翌1967年には国内外から募金が集まり、崩壊寸前だった遺構の第一期保存工事が実施されました。「痛みの記憶を消し去りたい」という心理的防衛と、「風化を防ぐ責任」という歴史的使命の間で揺れ動いた市民が、後者を選択した瞬間でした。
その後、世界遺産登録の決定的な経緯を迎えます。日本政府は1992年に世界遺産条約を批准したものの、負の遺産の推薦には近隣諸国や戦時交戦国への配慮から消極的でした。しかし、100万人を超える市民署名運動が国を動かし、1996年、ユネスコ世界遺産委員会において「原爆ドーム(Genbaku Dome, Hiroshima Peace Memorial)」として正式に登録されました。審議において、戦争責任の文脈を巡りアメリカが「記念物としての登録に懸念」を表明して決定への参加を保留し、中国が「日本の侵略の歴史が軽視される懸念」から棄権するなど、国際政治の激しい摩擦を乗り越えて勝ち取った登録だった事実は、今なお重い教訓を残しています。