映画『もののけ姫』を語る上で、ファンの間で最も活発な議論が交わされるのが「石田ゆり子のカヤとサンの一人二役」に関する演出意図です。物語冒頭でアシタカを慕い、部族の掟を破ってまで大切な「玉の小刀(黒曜石の小刀)」を託した許嫁の少女カヤ。そして、森の中で山犬として育ち、人間を激しく憎悪するヒロイン・サン。この対照的な二人の声を同じ石田ゆり子が演じた背景には、宮崎駿監督の緻密な心理的演出が隠されていました。
メイキング記録や関係者の証言によると、当初から意図的な二役としてキャスティングされたわけではなく、現場のオーディションと声質のテストを経て決定されました。しかし、そこには明確な作劇上の必然性がありました。
- 「文明社会に残された乙女」と「野生に生きる乙女」のコインの表裏:アシタカにとってカヤは捨てざるを得なかった平穏な日常と血縁の象徴であり、サンは運命に導かれて出会った対極の存在です。同じ声を持つ女性と出会うことで、アシタカの無意識下における宿命的な結びつきが強調されます。
- 玉の小刀の譲渡を巡る心理的葛藤:カヤから「いつもいつも想っております」と渡された小刀を、アシタカは後にサンへと手渡します。この描写は当時「カヤへの裏切りではないか」と物議を醸しましたが、宮崎監督にとっては「己の半身を捧げて生きる決意の移行」を意味していました。声が同じであるからこそ、アシタカの内面で二人の少女が魂の次元で重なり合っていることが示唆されているのです。
当時の石田ゆり子は、サンが持つ荒々しい野生の怒りや唸り声を表現することに非常に苦心し、宮崎監督から「もっと獰猛に!」「人間を憎む獣の声を出して!」と何度もリテイクを求められたと自著やインタビューで回想しています。清楚な佇まいを持つ石田が限界まで喉を絞り出して放った「去れ!」という叫びは、二役を演じ分けたからこそ際立つ凄みを放っています。