乱歩の短編傑作として筆頭に挙げられるのが『人間椅子』です。高名な女流作家のもとに届いた、醜い椅子職人からの告白状。自ら制作した豪奢な安楽椅子の中に身を潜め、座る人間の体温や感触を貪り楽しんでいたという手紙のあらすじは、視覚ではなく「皮膚感覚」を通じて読者に生理的恐怖を植え付けます。
この異様な発想が生まれた背景には、乱歩自身の極端な隠遁志向がありました。東京・西池袋に残る江戸川乱歩旧居(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター)には、土蔵を改装した書斎が現存しています。乱歩は日光を完全に遮断した真っ暗な土蔵の中に籠もり、蝋燭の灯りだけで執筆を行っていました。外の世界との接触を絶ち、自らを閉鎖空間に閉じ込める偏執狂的な生活習慣こそが、椅子の中に人間が潜むという前代未聞の着想の母胎となったのです。
一方、名探偵・明智小五郎が初めて姿を現した『D坂の殺人事件』は、日本の推理小説史における金字塔です。古本屋の2階で発生した密室殺人事件において、モジャモジャ頭に貧相な身なりの書生として登場した明智は、現場の物理的痕跡のみならず、人間の心理的死角(心理学的トリック)を突いて真相を暴き出しました。警察の鑑識捜査を嘲笑うかのような論理展開は、当時の読者に知的興奮をもたらし、日本型名探偵の原型を決定づけました。