佐伯奈々子がこの穏やかな「最後」に辿り着くまでには、魂を引き裂かれるような過酷な道のりがありました。彼女の軌跡を振り返る上で外せないのが、中学時代の決定打となった「夏祭り事件」と、その後に描かれた「高校編での再会シーン」です。
中学時代、春日の体操着盗難という異常な行動を知りながらも、佐伯さんは彼と交際を始めました。それは単なる好奇心ではなく、「周囲から押し付けられた優等生という檻」から自分を連れ出してくれる存在を春日に求めたためでした。しかし春日の魂を真に支配していたのは、クラスの変人・仲村佐和でした。春日と仲村の精神的共犯関係を目の当たりにした佐伯さんは嫉妬と絶望に狂い、自ら体操着を着て「私をめちゃくちゃにして」と春日に迫る暴走を見せます。
その破滅劇の頂点が「夏祭り事件」でした。やぐらの上で灯油をかぶり、社会を拒絶して無理心中を図ろうとする春日と仲村。佐伯さんは燃え盛るやぐらの下からその光景をただ見上げるしかなく、二人が共有する「不可侵の異界」から完全に拒絶された絶望を味わいました。
月日は流れ、舞台が宇都宮へと移った高校編。佐伯さんは再び春日の前に現れます。街中で偶然、新しい日常を築き始めていた春日(そして常磐文の存在)を目撃した佐伯さんは、激しい衝動から春日を呼び止め、喫茶店で対峙します。
「私をあれだけ無茶苦茶にしておいて、どうしてあなたは普通に生きていられるの?」
当時の傷口を抉るような佐伯さんの慟哭は、読者の胸に深く突き刺さる名場面となりました。しかし、春日もまた罪悪感と過去の亡霊に苛まれ、這いつくばるように生きていた事実を察した佐伯さんは、激しい葛藤の末に春日への復讐や執着を手放します。この再会シーンこそが、佐伯奈々子が「春日の被害者」という受動的な立場を脱し、自らの人生を自力で再始動させた決定的な転換点となったのです。